白瀬南極探検隊長墓碑

【南極探検隊隊長 白瀬矗】
文久元年(1861)秋田県由利郡金浦村(現にかほ市)の浄蓮寺住職白瀬知道の長男として生まれました。
幼いころから探検家を夢見ていた矗は、僧職になっては探検ができないと考え、軍人になりました。矗は、初め北極探検を目指していましたが、アメリカの探検家ピアリーが北極点の踏破に成功したことを知り、南極探検に切り替えました。政府の補助は得られず、大隈重信侯爵を会長とする後援会の協力や借金により、海南丸(東郷平八郎元師命名、204t)で品川を出港したのが明治43年(1910)11月29日。
数々の苦労の末、明治45年1月28日、白瀬陸軍中尉を隊長とする日本南極探検隊は、南緯80度5分、西経156度37分に達し、日の丸を立て、見渡す限りの雪原を「大和雪原」と命名しました。 探検から帰ってからの矗は、借金の返済に追われ、執筆活動をしながら全国を講演して歩きました。昭和20年(1945)西加茂郡挙母町(現豊田市)に移り、翌年9月4日腸閉塞のため満85歳で急死しました。

【西林寺白瀬南極探検隊長墓碑建立の由来】
白瀬矗没後、やす夫人は昭和22年末夫君の遺骨を抱き、次女武子孫喜子と共に、故あって吉良町(当時横須賀村)瀬戸に転住しここを永住の地と定め、本籍を当町に移されました。
しかし、やす夫人は昭和26年4月病を得て死去され、武子さんは、両親のお骨をここ西林寺の墓地に仮埋葬して、昭和27年喜子さんと共に、東京に移住されました。
昭和32年3月白瀬隊長の甥にあたる秋田県金浦町の白瀬知燈氏が来町され、分骨を請われて初めて白瀬隊長のお骨が残されていることを知りました。
ただちに関係者並びに吉良町史跡保存会は、この地を淨域と定め、元侍従長藤田尚徳氏の揮毫を得て、墓碑を建立しました。
住所〒444-0532 西尾市吉良町瀬戸宮西13(西林寺)      名古屋鉄道「上横須賀駅」から車で約10分


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